月の無い夜だった。
空には厚い雲が重く立ちこめていてまるで今にも雨が降り出しそうな色をしている。
何の灯りも無い廊下はそこかしこから外の夜の暗闇が滲んでいて特に奥の方には目をやっても墨によってまっ黒に塗りつぶされてしまっているかのように何も見えなかった。
その闇にとけ込むようにして廊下の壁に背を預け座り込んでいる篠ノ女は、鈍く痛む後頭部を片手でさすった。
手で触れれば更にズキズキと痛むそれに顔をしかめたその後で、ようやく闇に慣れてきた目を細め、壁に頭をぶつけた原因を見下ろす。
ほとんど体当たりに近い状態でしがみついてきた黒く艶やかな髪を持つ少女。
朽葉、と篠ノ女は名前を呼んだ。
その音はすぐさま暗闇の奥に吸い込まれるように消える。
篠ノ女にしがみつくようにして肩に顔を押しつけている朽葉の頭に片手で触れた。
朽葉、ともう一度篠ノ女は名前を呼んだ。
昼間の勝ち気な様子は微塵も無く肩を震わせて篠ノ女にしがみついてくる朽葉はまるで小さな子供のようだった。
篠ノ女は瞑目する。
冷えた廊下と夜風は篠ノ女の熱を奪い、しがみついてくる少女は篠ノ女に熱を与える。
どうした、と篠ノ女は静かに問いかける。
その問いかけに――ようやく、嗚咽の混じる声でそれでも切れ切れに言葉を紡いだ。
沙、門様が、と少女の唇が震えた。

「…沙門、様…が…っ居ないんだ…っ」

ぎゅっと篠ノ女の着物を掴む手に力が込められる。

「…っ居ないんだ…っどこにも…っ」

篠ノ女は途切れ途切れに紡がれる言葉を少しづづ繋ぎ合わせる。
そしてどうやら朽葉が言っているのは夢の話だ、という結論に至る。
それもそうだ。
何故ならば沙門が今日も酒を飲み、酔いつぶれていたのを篠ノ女は知っている。
朽葉だって知っている筈だ。
今頃あのオッサンは自分の部屋でいびきでもかいて気持ちよさそうに爆睡しているに違い無い。

「おい、」
「…っどこにも…っいなくて…っ」
「落ち着け、朽葉」
「沙…っ門様が…っ」
「朽葉、」
「だ…って…!」
「夢だ、只の」

只の夢だ。
篠ノ女は繰り返し言い聞かせる。
そんなものは、只の夢だ。
だが、朽葉は聞き分けの悪い子供のように首を振り嗚咽を洩らす。
頭が押し付けられている肩の辺りがじわじわと湿り気を帯びてゆき、小さな嗚咽と名前を呼ぶ声と時折ひゅっという奇妙な呼吸の音が繰り返される。
篠ノ女は黒く闇の中ですら艶やかに光って見える髪とそこから覗く白い首を見下ろした。
そして微かにその双眸を細める。

(馬鹿な奴、)

どうしてこんな所にいるんだ、お前は。
もっと他に行くところがあるだろう?
篠ノ女は暗い廊下のその先に視線を向ける。
今篠ノ女達がいるこの廊下を通っても沙門の部屋には行けなかった。
あの男の部屋は朽葉の部屋を挟んでちょうど逆の方向にあるのだ。
夢を見て、夜中に飛び起きて、それが現実なのか咄嗟に判断出来ない程――暗闇の中じっとしていることに耐えられない程恐ろしくて、それなのに朽葉は沙門の部屋には行かなかった。
それはいったい何故なのか、その理由を篠ノ女は知っている。
見せたく無いのだ、自分の情けない姿を、弱い部分を。
晒して、そしてあの男に拒絶されることだけを朽葉は恐れている。

(馬鹿な奴、)

そんなことをする男ではないと、分かっている筈なのに。
だからこそ、お前の世界の中心にアイツは存在しているんじゃねえのかよ?
まるで幼い子供のように酷く頼りない声が嗚咽混じりに繰り返し沙門の名前を呼ぶ。
沙門様、と繰り返す。
朽葉、と篠ノ女は名前を呼んだ。
そして闇と同じ黒髪に頬を寄せて目を閉じながら考える。
他の男の名前を繰り返し呼んで泣く朽葉とそれを突き放すことも抱きしめることも出来ない自分。


ああ、いったい、馬鹿はどっちだ。













朽葉は沙門様の為なら何だってするけど自分の弱い部分は見せられないんじゃないかなーと。
そんな時に縋るのが篠ノ女だったらいい。